人間ドラマの奥深さ…おすすめ度
★★★★★
このDVDを観るに先だってCDで演奏だけをさんざん聴いていたこと、そして各種のメディアでその評をさんざん眼にしてきたこと、この2つの要因のおかげで、それほどの違和感を感じることなく鑑賞することができた。
むろん、そうでなければカナリの抵抗があったであろうことは事実だし、そうでないとしても「こんなものは『フィガロ』じゃない!」という声があるのは至極当然だと思う。少なくとも、「初めて眼にすべき」フィガロでは明らかにない(私は3年生の娘と一緒にオペラDVDを観るのを常としているが、サスガに見せられないシーンが多々あった;苦笑)。正統的でまっとうな(?)演出を期待して「ホノボノと楽しい時間を過ごそう」と意図すると、見事にカタスカシを喰らうであろう。
しかし前述の理由もあって、あらかじめ「覚悟」を決めてから観てみると、実に含蓄がある演出とも言える。むろん、どう見ても無理のある場面や明らかにオカシイ部分も多々あり、その意味ではもっともっと「磯野家の謎」を参考にして(笑)処理を練り込む余地があったのは明らかだが、感心する部分も多かった。そしてそれは、グートの演出そのものに感心した、というよりも「まったく同じ脚本(オペラだから、一字一句とて変更は許されないワケだ)であっても、ここまで雰囲気が変わるものか」という「人間ドラマ」の奥の深さに感心したのであり、それを音楽で体現したアーノンクールも、やっぱり大したものである。CDだけ聴いていると、とにかくその遅さとウィットのなさ、融通の利かなさに腹さえ立つが(笑)、しかし映像を観ると大いに納得するし、「フィガロ」をよくぞここまでシリアスな音楽に変え得たものだと感心する。そしてこれは、実際に私たちの人生劇場そのものに関しても、大いに教訓となることである。「私の人生を楽しく朗らかにするか、それともシリアスに重いものにするか」なんて、まったく同じ台詞で一日過ごしたとしても、大いに変わる可能性がある、ということに気づかされたのである。ならば、朗らかに楽しくした方がよいに決まっているし、同じ台詞を口にするにも、その意味すらまったく変えて発信・受信する可能性がある、という気づきである。これも人間ドラマの奥深さと言え、それに配慮せず生きているのとそうでないのとでは、1年も経てば大きな差が生じているだろう…という気づきである。
閑話休題。しかし映像作品としては、さすがにモーツァルト生誕250周年のザルツブルクで、しかも劇場新装のこけら落とし上演となるだけあって、(内容・解釈の是非は別にして)盤石の完成度、と言わざるを得ない。歌手のレベルも超一流、ネトレプコの美しいスザンナ、演技のリハーサルも完璧で、グートの演出意図を歌手が完全に体現できているのは見事。ただし、シェーファーのケルビーノとレッシュマンのコンテッサは、ビジュアル的に完全に×。こういう演出をするのなら、もっと違った人選ができたはずだ。
台本にはない黙役の天使ケルビン役のウリ・キルシュは大変な美男子で、同性の眼から見ても魅了される。これも解釈の是非を云々する前に、その麗しさに「すべて許す」のであり(笑)、ケルビーノとコンテッサもそういう人選をすべきだった。
男声陣は盤石。当代随一の伯爵であるスコウフスのノーブルな表現と苦悩に満ちた役作りは特に見事であった。60kgのキルシュを背負いながら歌う場面では、ついつい観ているこちらまで力が入り、「ガンバレ!」と応援してしまうほど(笑)。ダルカンジェロのフィガロも、アクは弱いが悪くない。本来完全な脇役であるバジリオを歌うヘンケンスは、その異常な目つきが見事で、4幕での普通なら退屈極まりないアリアも、キルシュの見事なパントマイムと相俟って、説得力溢れるものに仕上がっていた。
総括。ネトレプコの姿とボーナス・トラックのインタビューをまず愉しむ。そして次に「同じ台詞を口にしても、その意味はいかにも変わりうるものなんだ」という人生教訓として観る。それだけでも、このオネダンを支払う価値は十二分にあると、私は思うのだが…。
演出にもう少し幸福感があればおすすめ度
★★★★☆
モーツァルト生誕250年のザルツブルグ音楽祭最大の話題作で、1年待たされてやっと手に入れたので、大いに期待していたのですが、序曲が始まると、アレアレえらく遅いなという感じで、シェーファーのケルビーノも目隠しして出てくるせいか、ちょっとこわごわ歌っている感じです。グートの演出も解説者のいうようにイプセンの現代劇のようですが、やりすぎという気もします。第2幕になると、なれてきたせいか、ケルビーノのアリアも美しく、音楽としては楽しめましたが、演劇としては最後まで違和感が残りました。モーツァルトのオペラを見終わった後のなんともいえない幸福感がないのです。たぶんモーツァルトの人間に対する暖かさがなくなってしまったせいかもわかりません。ただし特典映像で、ネトレプコがスザンナの第4幕のアリアをアーノンクールに「舟歌のように歌ってくれ」といわれたといって、ピアノ伴奏で歌いながら、グートが「目を開いて初めて光を受けたように初々しく」と演出をしている映像がありますが、ここは「なるほど」と納得できました。
暗いエロスの漂う新解釈おすすめ度
★★★★☆
ネトレプコのスザンナ、シェーファーのケルビーノ、アーノンクールにウィーンフィルという豪華版。演出のクラウス・グートは、イプセンやストリンドベルイ、ベルイマンの映画などに着想を得たと言う。エロスを志向するケルビーノを主人公とする精神分析的解釈だ。原作にない天使(ケルビーノの分身)が頻繁に登場し、パントマイムで人々をあやつり人形のように繰る。人は黒ずくめの服、カラスも頻繁に登場し、エロスよりはタナトスの物語だ。ケルビーノと伯爵夫人、スザンナと伯爵の大胆な性愛シーンもある。こうした解釈には疑問もあるが、新演出は色々と試みられてよい。大きな階段と踊り場だけからなる舞台はきわめて斬新だ。家具が一切ない。ケルビーノが隠れる椅子も伯爵夫人のベッドもない。何もない空間に晒された人間は床に座り込み、性愛は床に押し倒して行われる。シェーファーのケルビーノはまったく「宝塚的」なところがなく、『フィガロ』上演史を画するケルビーノ像だろう。付録のインタビューが楽しい。真夏のザルツブルクの青空の下、すっぴんのネトレプコが豊満な肢体を惜しげもなく晒して、にこやかに作品解説。
グートの演出に疑問?
おすすめ度 ★★★☆☆
いったいオペラほど総合的な完成度が問われるものはないかも知れない。現代最高の歌手人、演奏者、隙のない舞台装置、何が不満があるのだろうかと思うが、グートの演出は、DVDという繰り返し鑑賞する音楽のフォーマットを意識しすぎたのか、古今最も完成度の高い総合芸術としてのモーツアルトの「フィガロの結婚」を、ほとんど台無しにしている。喜劇というまばゆい光に映し出される陰が一方の主人公であるにも関わらず、深刻な表情や苦しく悲しい表情で歌う主人公達を見て、グートの演出に魅力を感じるだろか。これがDVDではなくCDであるなら、評価は違ったかもしれないが、同じ新演出でも、デッカーの原作の本質をついた2005年のネトレプコ主演の「椿姫」とは、格段の差があるといわざる得ない。そしてケルビム、この天使が出ることで物語が理屈ぽく見える。また伯爵夫人のドロテアレシュマンにしても、ネトレプコにしても、そしてシェーファーにしても、残酷なことだが、それぞれの適役としての年月が過ぎ去ってしまったと思うのは私だけだろうか?